特定の国と特別の関係で結ばれた音楽を作曲したような、「国民楽派」の作曲家はたくさんいる。国民楽派は色々の道のりで現れてきた。たとえばミハイル・グリンカの歌劇がとりわけロシア的であるとすれば、ベドジフ・スメタナやアントニーン・ドヴォルジャークの歌劇はチェコの民族舞曲のリズムや民謡の主題を利用している。19世紀後半には、ジャン・シベリウスがフィンランドの叙事詩『カレワラ』に基づく楽曲を遺したし、交響詩《フィンランディア》は、フィンランド民族主義の象徴的な楽曲となっている。ナショナリズムを参照して下さい。
管弦楽法と楽器編成 [編集]
ロマン派音楽においても、楽器法の開発は続けられた。ベルリオーズのような作曲家は、かつてない手法で管弦楽法を施し、改めて管楽器を目立たせた。従来は滅多に利用されなかったピッコロやコーラングレ、オフィクレイドやチューバ、ハープのような楽器を取り入れて、「標準的な」オーケストラの規模は膨れ上がる。ワーグナーとブルックナーはワーグナー・チューバも重用した。 マーラーの《交響曲第8番》は、膨大な人数の合唱と演奏者が指定されたことにちなんで、「千人の交響曲」と呼ばれたほどである。
より大編成のオーケストラの利用に加えて、ロマン派音楽の特色は、作品が長くなりがちだったことである。ハイドンやモーツァルトの典型的な交響曲は演奏時間が25分程度しかないが、一般にロマン派音楽の開始に位置付けられるベートーヴェンの《交響曲第3番「英雄」》は40分程度の長さである。大作化の傾向は、とりわけブルックナーやマーラーの交響曲において頂点に達した。
ロマン派音楽の時代は、楽器演奏の名人の台頭する時期でもあった。ヴァイオリニストのニコロ・パガニーニは、19世紀初頭のスターのひとりであったが、その名声はたいてい、演奏技巧と同じく、カリスマ的資質に由来するものと見縊られていた。リストは非常に有能な作曲家であっただけでなく、たいへん人気の高い名ピアニストでもあった。このようなヴィルトゥオーソの出演する演奏会は、作曲家よりも大人数の聴衆を呼び込みがちであった。
ロマン派音楽の沿革 [編集]
源流(1780-1815) [編集]
文学においてロマン主義の時代は、1770年代もしくは1780年代にドイツにおいて、「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動とともに始まった、としばしば言われている。それに影響を与えたものは、シェイクスピアの戯曲やホメロスの詩、民族的な神話(と伝えられるもの)だった。ゲーテやシラーのようなドイツの作家が急激に態度を改める一方、スコットランドでは、ロバート・バーンズが民謡を書き留めようとしていた。この文学運動は、「古典派音楽」の時代の作曲家にもさまざまなかたちで影響し(モーツァルトのジングシュピールもその一つである)、芸術的な表現において兇暴性を募らせていった。しかしながら、たいていの作曲家が宮廷音楽家である限り、王侯貴族の庇護を受けるためには、「ロマン主義と謀叛」にかかずることはできなかった。モーツァルトが、《フィガロの結婚》が革命的であると非難され、上演にてこずったのがまさしくそれであった。
純粋に音楽的な意味においてさえ、ロマン派はその基本的な実質を、古典派の慣習体系から引き出していた。古典派の時代は、作曲や演奏の基準が増していき、音楽の標準となる形式や内容が作り出された時期である。E.T.A.ホフマンが、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンのことを「古典派音楽の3大作曲家」と呼んだのも、故ないことではない。古典派の時代における最も決定的な(ロマン派音楽の)萌芽は、半音階技法と、和声的な曖昧さである。古典派の主立った作曲家はみな、曖昧な和声法や、長調と短調を慌しく行き交う手法を用いて、真の主調を伏せている。その最も有名な例の一つが、ハイドンのオラトリオ《天地創造》の開始における「音楽的カオス」である。だがしかし、これらの脱線にもかかわらず、楽曲において緊張状態となったものは、アーティキュレーションのかかった楽節、属調や近親長調への移動、そしてテクスチュアの透明性である。
1810年代までに、半音階技法と短調の利用や、より多くの調を通って、より低い音域へと向かっていこうとする願望は、よりはっきりとオペラに手を伸ばす必要に結び付けられた。後にこのような音楽運動の中心人物と見なされたのはベートーヴェンであったのだが、主題の素材により半音階的な進行を取り入れようとした当時の趣味を実際に代表するのは、クレメンティやルートヴィヒ・シュポーアであった。より多くの「音色」の要望と、古典的な形式感の要望は、互いに矛盾するものであり、音楽を破綻させるものだった。その反動の1つが、オペラへの動きであった。オペラでは、たとえ形式的なモデルがない箇所でも、台本が構成を示してくれるからである。E.T.A.ホフマンは、今日では専ら批評家として著名であるが、当時は歌劇《ウンディーネ》(1814年)によって、音楽における過激な改革者と見なされていた。破綻に対するもう1つの反動は、性格的小品への動きである。中でも新奇な小品の1つが夜想曲であった。夜想曲では、和声の密度それ自体が音楽を先に進める推進力となっているのである。
初期ロマン派音楽(1815-1850) [編集]
1810年代までの、楽曲素材に対する新たな変化は、旋律中における半音階のいっそうの利用や、より表情豊かな和声法への要求と並んで、一目瞭然の変化となった。ナポレオン以後のヨーロッパという新しい環境に対して、訴求力を持つことのできた作曲家にとって、舞台は設定されたのである。
これらの作曲家の第一波は、概ねベートーヴェンやシュポーア、ホフマンのほか、カール・マリア・フォン・ウェーバーとフランツ・シューベルトであった。これらの作曲家は、18世紀後半から19世紀初頭までの演奏界の劇的な急成長のさなかで育っているのである。ベートーヴェンが、大勢から従うべき模範としてとして認められたが、クレメンティの半音階的な旋律や、ケルビーニやメユール、ロッシーニの目映いオペラ作品も影響力をもっていた。それと同時に、中産階級にとって自宅での音楽活動が家庭生活の重要な部分となりつつあったため、民族詩への曲付けや、ピアノ伴奏歌曲の作曲は、作曲家の新たな(そして重要な)収入源となった。
このようなロマン主義の波において重大な作品は、ウェーバーの一連のロマンティック・オペラ(《オベロン》《魔弾の射手》《オイリアンテ》)や、シューベルトの連作歌曲と交響曲である。シューベルトの作品は、当時は聴衆の前での演奏が限られていたが、次第に衝撃力を広げていった。対照的に、ジョン・フィールドの作品はすぐ有名になった。部分的には、フィールドがピアノのための性格的小品や舞曲を創る能力に恵まれていたからである。ロマン派の作曲家の次なる一団は、エクトル・ベルリオーズ、フェリックス・メンデルスゾーン、フレデリック・ショパン、そしてフランツ・リストである。みな19世紀の生まれであり、初期の経歴から永久不滅の作品の創作にとりかかっている。メンデルスゾーンはとりわけ早熟であり、2つの弦楽四重奏曲や弦楽八重奏曲、演奏会用序曲《夏の夜の夢》を完成させたのは、まだ10代のうちであった。ショパンはピアノ曲の作曲に集中しようとしていた初期に、2つのピアノ協奏曲と練習曲集を完成させており、ベルリオーズはベートーヴェン以後で最も重要な交響曲の先駆け《幻想交響曲》を完成させている。
また同時に、今日「ロマンティック・オペラ」と呼ばれている音楽は、パリや北部イタリアとの強力な関係によって成立した。フランスの超絶技巧のオーケストラと、イタリア風の声楽の旋律線や劇的な燃焼力との結合は、原作を大衆文学からとる傾向と相俟って、今なおオペラの舞台に君臨し続けているような、感情表現の1つの規範となっている。ヴィンチェンツォ・ベッリーニやガエターノ・ドニゼッティが、この頃すこぶるつきの人気であった。
ロマン主義のこのような局面についての重要な視点は、ピアノの演奏会(リストの用いた言葉を借りるなら「リサイタル」)の幅広い人気であった。当時のリサイタルは、人気のある主題による即興演奏や、小品、ベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタなどの大作から構成されていた。最も重要なベートーヴェン弾きは、後のシューマン夫人クララ・ヴィークであった。鉄道や蒸気船によって旅行が簡便になると、リストやショパン、タールベルクといったピアノのヴィルトゥオーソは、演奏旅行の回数を増やし、国際的な聴衆を獲得した。演奏会はそれ自体が事件となった。ヴィルトゥオーソ現象の先駆者こそ、かのヴァイオリンの巨匠ニコロ・パガニーニだったのである。
1830年代から1840年代にかけて、ロベルト・シューマン、ジャコモ・マイヤベーア、ジュゼッペ・ヴェルディ青年らを含む音楽的な世代が、花盛りの時期を迎えた。特筆すべきは、「ロマン主義」や、あるいは当時の音楽活動で主流の様式ですらあった、パリ音楽院が手本となったポスト古典主義様式だけでなく、宮廷音楽までもが、演奏会のプログラムを左右していたことである。これが変化するようになるのは、交響楽団のような団体による定期公演の隆盛によってであり、その流行を促したのは、ほかならぬメンデルスゾーンであった。音楽は半ば宗教的な経験と見なされるようになり、「楽友(フィルハーモニー)」協会が演奏会の一部となって、前時代の演奏界とは対照的に、形式ばった態度がとられた。
リヒャルト・ワーグナーが最初に成功したオペラを制作し、「楽劇」という概念に至る構想を大胆に膨らませるようになったのもこの時期である。自称革命家で、つねに債権者や為政者とトラブルを抱えたワーグナーではあったが、身の回りに馬の合う音楽家を集め始めた。そのひとりがフランツ・リストであり、両者はともに、「未来の音楽」の創出へと没頭した。
文字通りの「ロマン主義」は、大雑把に見ると、ヨーロッパ情勢を一変させた1848年の「革命の年」をもって終息する。パガニーニやメンデルスゾーン、シューマンらの逝去や、リストのリサイタルからの引退に加えて、「写実主義」のイデオロギーの高まりとともに、音楽活動の新しい波が訪れた。この新しい波については、詩や絵画の場合と同じく、ロマン主義というより「ヴィクトリア朝文化」と位置付けるべきだと論じる向きも英国にはあるが、今のところ主流派にはなっていない。その代わりに、19世紀後半の音楽については、「後期ロマン主義音楽」と評されている。
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